生涯特定の師につくことがなかった鉄斎は、古画に学び意欲的に摸写をしました。摸写は粉本と呼ばれ、原画を見て写す臨摸と透かして写す透き写しがあり、鉄斎は自分の絵は盗み絵だと語っていたことはよく知られています。このことを裏付けるのが鉄斎の遺した膨大な粉本といえます。 現存するなかで一番古いものは19歳の時に摸写した花鳥画「雉子図」ですが、晩年に至っても鉄斎の探求心は衰えず、摸写は続けられました。 前号に続き、鉄斎美術館の細里学芸員に聞きました。
あらゆる分野、多彩な画題、
多様な画法を写した鉄斎
鉄斎は南画論で自身の画道について、古人の真蹟を熟覧し、臨摸を通じて、古人の画格筆意を研究することで、自身の画風を確立し作品としていくものと述べています。
分野は山水・人物・花鳥・風俗・仏画・絵図など多岐にわたり、人物画は鉄斎が敬愛する人物の摸写が多く遺されています。
鉄斎美術館では次回、今年、没後250年にあたる江戸期の文人画家・池大雅によせて、「鉄斎の富士」が開催されます。
鉄斎は池大雅をことのほか崇高し粉本も数多く遺しています。肖像画は『池大雅像』(上図中)があり、大雅筆の『琵琶湖図』、『紫式部石山寺図』、『九霞墨戯図』の粉本などが挙げられます。
鉄斎の大雅に対する姿勢を端的に表しているのが60歳の時に制作した『大雅逸事巻』という約10メートルに及ぶ巻子です。
前述の摸写以外に鉄斎が大雅に関する様々なものを手に入れ、調べたことなどが記され、与謝蕪村から大雅に宛てた書簡や大雅の住まいである大雅堂を手控えとして描いた絵図など内容の多彩さに驚かされます。
また、本画になったものとしては三熊思孝筆の大雅像を元にした肖像画、大雅の富士山頂上略図を写した絵図(『鎮国山帖』のうち)などがあります。
山水画では中国宋から清までの文人画を摸写、董其昌の『武陵桃源図』、黄大癡の『天池石壁図』(上図右)などのほか、江戸時代後期の文人画家・渡辺崋山『黄梁一炊図』、野呂介石の『那智三瀑図』などを写しています。一般に鉄斎の粉本を観る機会は余りありませんが、遺されたおびただしい数の粉本は、鉄斎自身の中で咀嚼され吸収され、南画論で言及している通り、やがて自己の胸中で構成された、鉄斎の画風、独自の技法を生み出していったといえるでしょう。

(粉本)池大雅像〈『大雅逸事巻』のうち〉