鉄斎の旅には明確な目的が
鉄斎美術館開館40周年記念展は当時学芸員だった奥田さんも企画に参加されたのですね。
春季展は「万巻の書を読む」、秋季展は「万里の路を行く」とし、秋季展では鉄斎が日本中に足跡を遺し、素晴らしい作品を描いた背景に迫り、旅の目的を再確認する、という趣旨で企画しました。
24歳の頃の筆録「巡土雑話」には、旅の目的は地理研究と先哲の遺像古墳を訪ね捜索することにあり、物見遊山の旅でないことを謳っています。
鉄斎の前半生の旅は北海道への大旅行、富士登山に代表され、50歳代以降は御岳、妙義山、松島、日光などのほか天橋立や寒霞渓を巡る旅をします。旅への知的好奇心は衰えることはありませんでした。
明治時代に開拓がはじまった北海道への旅は、若い鉄斎にとってどのようなものだったのでしょうか。
北海道の名付け親として知られる探検家・松浦武四郎との交流を通じて、当時は辺境の地であった蝦夷の事を知り、アイヌの人々の実情も学び理解を深めていったと思われます。武四郎は政府の開拓方針に失意し、開拓判官を辞任、自身の雅号を「馬角斎」としていました。
明治7年(1874)、北海道旅行を敢行した鉄斎は蝦夷地を巡りスケッチや旅日記を遺しています。蝦夷の風土を体感したことは画を描く上では大切な要素で、得た知識と相まって数々の作品に昇華されていったのでしょう。
作品の一つ『蝦夷人鶴舞図』は、実際に鶴舞を見ていないにも関わらず、躍動感があり、アイヌの人々への敬愛が感じられ、捺された印や落款からは蝦夷の地を踏んだ喜びと達成感が伝わってきます。
名所十二景図のうち『不尽山絶頂』は富士山の火口が描かれていますね。
北海道旅行の翌年、40歳で生涯に一度の富士登山を果たし、火口を巡るお鉢巡りをしたことは旅日記に記され、『扶桑勝区帖』などにも描かれています。
鉄斎は尊敬する池大雅の富士の画を始め、多くの文献を読み解き、たった一度の経験をもとに多様な富士の姿を最晩年まで描き続けました。
「鉄斎―歴訪の旅」では実際に旅をした日本の景の他、鉄斎の胸中にある中国の景を描いた作品も展示されます。
9月22日〜12月20日、鉄斎美術館別館史料館で開催される「鉄斎―歴訪の旅」展。
「万巻の書を読み、万里の路を行く」を座右の銘とした富岡鉄斎(1836〜1924)は、日本中を旅し、各地の景を作品に遺しています。2015年、鉄斎美術館開館40周年記念に「万巻の書を読み、万里の路を行く」展を開催し、記念図録に「鉄斎―万里の路を行く」を執筆した元鉄斎美術館学芸員の奥田素子さんに鉄斎と旅について伺いました。