特集・鉄斎美術館開館35周年記念特別展
鉄斎美術館35年のあゆみ
術に造詣の深かった37世光浄和上が富岡鉄斎の芸術に流れる深い宗教心と豊かな芸術性に傾倒し、作品蒐集に情熱を傾けたのが始まり。大正11年和上48歳の時、清澄寺とも関わりが深く、鉄斎と交友のあった酒造家、辰馬悦叟氏の仲介で鉄斎と直接会う機会を得る。
和上は画とともにその人格に崇拝の念を抱き、鉄斎が89歳で亡くなるまでの3年間、親交を結び「蓬莱山図」など13点の作品が贈られ、和上に宛てた書簡とともに清澄寺に遺されることとなった。蒐集された多くの鉄斎作品は寺の什宝であると共に、光浄和上が願った芸術の振興、美術の普及のため、昭和11年からは国内各地で展覧会が開催される。昭和32年には初の海外展、アメリカ巡回展が挙行され、83歳の光浄和上は単身渡米。和上には初めての海外とあって前年に開催された高知での展覧会には飛行機を利用しアメリカ行きに備えたというエピソードが残っている。以後カナダ、ソ連、ヨーロッパ、中国など海外40都市で展覧会が催され、世界に鉄斎芸術が紹介され好評を博した。
美術館が建設される以前、国内巡回展に奔走した一人、現在の館長森藤光宣氏は、「昭和46年の九州巡回展は貨車で九州まで運んだ作品をトラックに積み替え、夜通し次の会場まで走るという強行軍でした。当時は立派なコンテナもなかったので暖房も入れられず大変でした」と語る。鉄斎展に傾ける情熱は並々ならぬものがあったに違いない。
光浄和上の想いは38世光聰和上に受け継がれ、展覧会場では和上自らが展示の指示をするほどだったそうだ。
昭和44年からは鉄斎研究の第一人者小高根太郎氏と鉄斎の孫、富岡益太郎氏(鉄斎美術館初代館長)により、賛の解読など鉄斎の研究が進められる中、昭和46年に収蔵庫「蓬莱庫」が完成、昭和50年に、コレクションを通年一般公開する念願の鉄斎美術館「聖光殿」が境内に開館した。光聰和上は作品にとって一番いい環境をと考え、東京国立文化財研究所にも度々足を運び、防湿、温度管理はもちろん意匠にも気を配り、土間は備前焼、外壁面は有田焼のタイル、館内の壁面は鉄斎愛用の「子孫千万」印を織紋様にした西陣織など全て本物で仕上げられ、正面は書家、森田子龍氏揮毫による扁額「聖光殿」が掲げられる。
画はもちろんのこと書、粉本、器玩など20歳代から89歳までの作品の他、愛蔵品、筆録などその数1200点余りが企画展示されている。その入館料は宝塚市の美術図書購入基金に寄付され、宝塚市立中央図書館内に設けられた「聖光文庫」は日本でも有数の美術書の宝庫となっている。また、開館25周年には第39世光謙和上によって最新設備の整った新収蔵庫が美術館に併設された。鉄斎作品の蒐集、保存において世界唯一を誇る美術館になったといっても過言ではないだろう。
現和上は作品を通して広く鉄斎の芸術を後世に伝えることは鉄斎美術館の使命だという。71号で休刊をしていた研究書「鉄斎研究」が35周年を機に復刊され、鉄斎美術館の学術的価値は高まり、美術館の存在は、これから益々大きくなると言えそうである。
35周年記念特別展前期では鉄斎の富士が一堂に
美術館では節目の記念展として大きな展覧会が開催されてきたが、35周年の今回は超大作が並ぶ。前期は鉄斎が生涯テーマとした富士山の画、23点が一堂に介する展覧会。初出品の作品2点や京都国立近代美術館蔵の六曲屏風「富士遠望図・寒霞渓図」など普段は見られない貴重な作品も並ぶが、やはり横山大観の富士と対決し話題を呼んだ六曲屏風「富士山図」は見逃せない。右隻のすそ野を曳いた全形(写真は右頁)と左隻の火口だけを力強く描いた対の富士、また、最晩年に木炭で描かれた九十落款の富士もあり、鉄斎の多彩な富士に囲まれじっくり鑑賞できるのもこの美術館ならではの企画だろう。
後期「鉄斎-豊潤の色彩-」も大作が揃うが、水墨画家、鉄斎のイメージとは違って色彩がテーマ。鉄斎芸術の魅力は墨の力強さはもとより、鮮やかかつ繊細な色彩感覚でもあると言われ、色鮮やかな作品も多く描いている。重要文化財である辰馬考古資料館蔵の六曲屏風「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」(写真は右頁)は、鉄斎と親交のあった辰馬家(前述)に滞在して描いたという。79歳の大作で雄大な構図に緑青、群青、朱の濃彩が美しく、豊潤の色彩を感じることが出来る作品である。その他、京都国立博物館蔵六曲屏風「蓬莱仙境図・武陵桃源図」(写真は右頁)など選りすぐりの作品15点が並ぶ。文人画家として円熟の境地に達した70、80歳代の名作が中心となっており、鉄斎の魅力を余すことなく見せてくれる展覧会といえるだろう。
富岡鉄斎(1836~1924)は京都に生まれ、若くして学者を志す。大阪堺の大鳥神社などの宮司を勤め、荒廃した神社の復興に尽くす。絵はほとんど独学で学び、和漢のあらゆる画法を研究、89歳で没するまでに数多くの作品を描き、仙境図など独自の世界を表現するに至る。晩年には帝国美術院会員(今の芸術院会員)になるなど、日本美術画壇に大きな足跡を遺した。鉄斎の評価は、ますます世界的に高まりつつある。