真言密教を日本に伝えた弘法大師空海
西暦774年6月15日、讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺)に誕生した空海は二十歳で槇尾山寺にて得度、803年、三十一歳の時に遣唐使として中国に渡ります。後に天台宗の開祖となる最澄も同じく遣唐使のひとりでした。
空海は長安の都に入る事を許され、密教を学ぶために必須である梵語を印度僧般若三蔵に師事、梵語の経本や新訳経典を与えられ、その後、長安青龍寺の名僧・恵果和尚に真言密教を伝授され、経典全てを会得します。仏教に加え、土木技術や薬学など多分野をも学び、留学二年後に日本に帰国しました。
長安では恵果和尚入滅に際しては、全弟子を代表し、顕彰碑文を起草したと言われています。
二十年の留学期間を二年で切り上げた空海は、帰国後すぐには朝廷より入京を許されず、数年間は大宰府に滞在、809年に入京を果たし、高雄山寺に入りました。入京に際しては、後に袂を分かつ最澄の尽力があったと言います。817年に高野山の開創に着手し、819年には伽藍の建立に着手しました。その頃、『即身成仏義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』など多く著しています。
821年には満濃池の改修を指導し、最新の工法を駆使して工事を成功に導いたことはよく知られています。822年に東大寺に灌頂道場真言院を建立、823年には東寺が真言密教の道場となりました。更に832年8月、高野山において最初の万燈万華会が行われ、その年の秋には高野山に隠棲して禅定(ぜんじょう)に入りました。翌年、高野山の金剛峯寺が真言宗の定額寺となり、835年3月21日に空海は六十二歳で入寂(入定)。荼毘に付されたとされていますが、未だ高野山に隠れているという説があり五十年ごとに「御遠忌」法要が営まれています。
多くの参詣者が高野山を訪れるようになり、入定1150年御遠忌には映画「空海」も制作され1984年に上映されました。
弘法大師の称号は921年に後醍醐天皇より授けられ、四国八十八カ所「遍照院」や「善通寺西院」などを始め、真言宗の多くの寺院に大師像が祀られており、清荒神清澄寺の境内にも修行当時の大師像が祀られています。6月15日の降誕会では本堂での理趣三昧法要(午前11時~)、大師像前で読経、法話が執り行われます。その後、参詣者にはお供え物の授与が行われます。苦行の末、日本に真言密教を広め、高野山に真言宗の根本道場を開いた弘法大師空海。降誕会では宗教者として偉業をなし、更に書家・文人としても偉大な業績を遺した高僧の徳を偲びます。
境内にある修行中の大師像
大師像前での法要
6月15日11時~執り行われる理趣三昧法要
本堂に安置されている大師像