清荒神を訪ねて 鉄斎美術館別館史料館 清荒神と鉄斎 シリーズⅠ

清荒神を訪ねて 鉄斎美術館別館史料館 清荒神と鉄斎 シリーズⅠ

清荒神と鉄斎作品の出会いを紐解く  日本国内で鉄斎作品を一番多く収蔵しているのが...

清荒神と鉄斎作品の出会いを紐解く

 日本国内で鉄斎作品を一番多く収蔵しているのが、清荒神清澄寺。境内には鉄斎美術館「聖光殿」(現在休館中)があり、2000点以上に及ぶ作品・資料が保存されています。来る令和6年は富岡鉄斎没後100年にあたり、京都国立近代美術館などでも記念の展覧会が開催されますが、ここ鉄斎美術館からも多くの作品が出品されます。
 清荒神と鉄斎との深い縁の始まりは、第37世法主坂本光浄和上に遡ります。大正2年(1913)に清澄寺の住職となった後、信徒総代で鉄斎と親交のあった辰馬悦叟翁(酒造家)から鉄斎の作品「淡彩山水図」の大幅が贈られ、それをきっかけに和上は寺宝として鉄斎作品を収集することになります。和上は熱心に作品一点一点に向き合い、特に賛文は念入りに鑑賞、研究をしたと言われています。
 作品が増えるにつれ、和上は鉄斎に直接会うことを念願、悦叟翁と高野山座主土宜法龍大僧正の紹介の下、大正11年7月に京都室町一条の鉄斎邸への訪問が叶いました。和上は鉄斎芸術に心酔、宗美一体を確信し、コレクションは質、量とも他の追随を許さないものとなりました。和上は鉄斎を清荒神へ招きたいと、何度となく鉄斎を訪ね、境内の客殿は鉄斎に因み、「百錬堂」と命名、土宜法龍大僧正が揮毫した扁額が掲げられました。鉄斎は訪問を直前まで楽しみにしていましたが、高齢でもあり、体調に配慮して登山は叶わぬこととなりました。その経緯は和上宛の書簡で知ることができます。しかし、交流は親密の度を深め、最晩年の貴重な17作品、「弘法大師在唐遊歴図」「巌梄十八羅漢囲碁図」などが贈られました。また、和上が鉄斎に懇請した書の手本として、鉄斎自身の装幀になる「前赤壁賦書」三冊が大正13年12月12日に届けられました。
 その月の31日に鉄斎は亡くなりますが、その三日前に書かれた和上宛の書簡には「…一々御礼書を呈さず放置し、多罪慙愧の至り也。何れ冥々の裏感謝致し申す可きも、先ず現世の有難きは今更言う可からざる也」と書かれ、年齢を越えた信頼感が表れています。和上は鉄斎の人格を「真実の人」と称し、鉄斎作品は神・仏・儒三教に基き、人心感化に役立つと認識し宗教と芸術の一体を説き、鉄斎顕彰に生涯を奉げたいと考えたのではないでしょうか。そして、ここ清荒神に貴重な遺産として鉄斎作品が保存され、公開されることになりました。(つづく)
(『鉄斎美術館開館二十五年のあゆみ』から「清荒神と鉄斎」を参考にしています)


前赤壁賦書 大正13年 89歳


京都室町の自宅で春子夫人と。
大正11年 87歳

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