清荒神清澄寺を訪ねて 富岡鉄斎と坂本光浄和上の交友

清荒神清澄寺を訪ねて 富岡鉄斎と坂本光浄和上の交友

 清荒神清澄寺は「鉄斎寺」と呼称されるほど、富岡鉄斎の作品を多く所蔵し公開しているが、それはなぜなのだろうか? 4月に発行された季刊誌「大阪春秋」182号には宝塚特集が組まれ、鉄斎美術館学芸員の細里わか奈さんの「清荒神清澄寺と鉄斎美術館」と題する文面にその訳が紐解かれている。その一部を短くまとめて紹介してみたい。

清澄寺は旧清(もときよし)から、西ノ谷に移り再興される
 平安中期に宇多天皇の勅願寺として創建したと伝わる清澄寺は長尾山の尾根に七堂伽藍が建立され、現在の天堂と本堂がある西ノ谷には清澄寺の鎮守神として三宝荒神社が祀られていた。七堂伽藍の跡地は発掘調査され、旧清として遺跡が保存されている。
 清澄寺は源平合戦で罹災し、源頼朝により再建されたが、天正7年の荒木村重の乱により再び消失、西ノ谷にあった三宝荒神社のみ火災を免れた。諸堂の再興は豊臣秀吉によってなされたが、すでに南北朝時代に西ノ谷には奥ノ院「龍蔵院」が建立されていたという記録が残っており、江戸時代末期には旧清から西ノ谷に全てを移し、第33世法主浄界が諸堂を再興、現在の基礎が出来上がったといえる。
 明治維新を経て、明治43年の箕面有馬電気軌道開通により清荒神駅が開業、参道には祓禊橋が架けられ参詣者で賑わうようになってくる。
 宝塚に宗教と芸術文化が融合する「宗美一体」の聖域を築くことを理想とした第37世法主坂本光浄和上は、書画に精通する信徒総代で酒造家の辰馬悦叟の勧めもあって鉄斎作品に流れる高潔な精神と豊かな芸術性に心打たれ、蒐集と研究に情熱を注ぐことになる。
富岡鉄斎と光浄和上
 大正11年、光浄和上は悦叟の頌徳碑を境内に建立するに当たり、鉄斎に揮毫を依頼するため初めて京都室町の鉄斎邸を訪れ面談した。鉄斎は数え87歳、光浄和上は47歳だった。その年に客殿を建立、ここに鉄斎を迎えたいと念願し、客殿は鉄斎の名に因み「百錬堂」と命名され、度々鉄斎邸を訪れて来山を願ったが、高齢のため体調が不安定で叶うことはなかった。和上が「百錬堂」に鉄斎作品を陳列した写真は鉄斎の愛蔵品として現在も遺されている。和上と鉄斎は書簡で親交を温め、大正12年8月には仏心を説いた『古仏龕図』が鉄斎から贈られた。ほかにも清澄寺の八丁参道を天に昇る龍に見立てた『昇天龍図』や最晩年の大正13年12月には和上が書の手本として依頼した書の傑作と言える『前赤壁賦書』が届けられた。
 同月19日、鉄斎の誕生日には長寿を祝う記念の品と牡丹花が和上から贈られ、返礼として清澄寺の山号に因んで『蓬莱山図』が託された。そして、大晦日に鉄斎は急逝したが、死の3日前28日付で書かれた光浄和上宛書簡も遺されている。晩年の2年半の交流であったが、その間に直接贈られた書画作品16点が清澄寺に遺された。
 その後は38世法主光聰和上により約2000点のコレクションを一般公開するため鉄斎美術館が開館(現在休館中)し、現在は平成20年に境内に建設された別館「史料館」で通年展示が行われている。※次回展については本誌15ページ参照。

*‌「大阪春秋」令和3年春号「清荒神清澄寺と鉄斎美術館」より抜粋。
*‌感染予防対策のため展覧会情報は事前にHPなどで確認ください。

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