清荒神清澄寺境内の鉄斎美術館別館史料館では1月から12月まで4回に分けて鉄斎美術館開館45周年の展示が行われていますが、6月28日~10月4日は前号で紹介した「鉄斎の祭礼図」展が開催中です。近代最後の文人と評された富岡鉄斎の魅力をひも解いてみました。
長寿を理想とし、生涯画を描き続けた
鉄斎は天保7年(1836)12月19日に京都で法衣商の次男として誕生、学問の道を志し、画は文人の嗜みとして19歳の頃から学び、生涯の恩人となる歌人で陶芸家の大田垣蓮月と同居、作陶を手助けしました。勤皇家だった蓮月の薫陶を受け、青年期は国事に奔走しました。明治9年(1876)、41歳から堺の大鳥神社などの宮司となり、荒廃した神社を復興したことはよく知られています。46歳の時に京都に戻り室町通一条に生涯の住まいとなる居を構えました。鉄斎の交流は広く、55歳で京都画壇の幸野楳嶺等と京都美術協会を設立。学者を自任していた鉄斎は4年後、京都市美術学校の教師として請われ修身を担当します。82歳で帝室技芸員を拝命、翌年帝国美術院会員となりました。中国故事や日本の古典に学び「万巻の書を読み、万里の路を行く」を実践して得た深い知識により、独自の世界を画に表わし、仙境図を始め、六曲一双屛風「富士山図」や「青緑山水図」など大作の他、花鳥画や風俗画など多様な分野、多彩な画題の作品を遺し、大正13年(1924)89歳の生涯を見事に全うしました。
開催中の「鉄斎の祭礼図」展では鉄斎が画を以て表した日本の祭礼の精神性にも想いを馳せてみてはいかがでしょう。
(年齢は全て数え年)
鉄斎は数え89歳の夏頃からまもなく90歳を迎えることを喜び、いわゆる「九十落款」を用いた。「能因法師図」にも九十落款が見られる。賛には「奇妙な愛玩の品を見せ合い、お互いに愛でて歓び合う」という文人鉄斎が理想とする自由人の境地が書かれ、「まず賛を読んでほしい」という鉄斎の画に込めた思いが伝わってくる。
鉄斎・春子夫妻 大正7年
京都室町一条自宅書庫前にて、帝室技芸員拝命祝賀会の朝