幕末に生まれ、尊皇倒幕の只中、勤皇家であったという富岡鉄斎は維新後の遷都に伴い天皇の東京行幸に供奉するなど、皇室とのかかわりを持ち、関連の画や書を遺しています。新天皇の即位を記念して開催されている令和元年の掉尾を飾る展示を、フォトグラファーで日本画家・奥村土牛の四男でもある奥村森さんと鑑賞(前期展示)、皇室にまつわる作品の中にも透けて見える人間鉄斎の魅力を読み解きました。
鑑賞者に想像の自由を与えてくれる
鉄斎が勤皇家だった背景には敬愛してやまなかった歌人・大田垣蓮月の影響が大きいでしょう。書生として神勅思想を学ぶとともに人としてあるべき姿を学んだと思えます。
京から東京への遷都にあたって明治天皇の行幸に三十代の鉄斎が同行する際、蓮月は数種の和歌を書いて鉄斎に託し、鉄斎は着いた神田の宿でその和歌を配した「花瓶図」(後期)を描いたといいます。
行幸途中で初めて富士を見た鉄斎が公卿の東久世通禧の和歌と合作した「富士図」も出品されています。
戦装束の神武天皇を描いた「神武天皇像」(奥村さんの左後ろ)は南画に大和絵の要素を取入れた緻密で美しい画。鮮やかな緋色の装束、デフォルメされた顔の表情に五十代の鉄斎の力量を感じました。
書画を嗜んだ久邇宮家とは親交が深かったようで五山の送り火には御所東の荒神口にある邸に招かれ席上揮毫を行った貴重な久邇宮邦彦王撮影の写真も見ることができます。また、昭和天皇と良子女王の成婚奉祝には京都市から鉄斎筆「武陵桃源図・瀛洲神境図」が献上され、現在も宮内庁(三の丸尚蔵館蔵)に保管されていると本展の出品目録に記されています。
タイトルの「天子知名」は明治41年に明治天皇御用画の拝命を受け、その記念に彫らせた印だそうですが、鉄斎の胸の内が手に取るようです。天皇崩御の後、画の所在が分からなくなっているのは残念です。
大正天皇即位を祝して書いた「萬々歳書」には消印が押された記念切手が貼られ、引首印として大きな自刻印「天賜寿杯」が捺されていたり、鉄斎の遊び心、今でいうオタクぶりに人となりが垣間見えてきます。
父・土牛も101歳と長寿で、鉄斎同様、生涯現役で描き続けました。晩年は写実ではなく、胸中の表現というか抽象画に近くなりました。鉄斎の晩年の作品は現代アートの魁とも思える、想像の自由を与えてくれる画です。
プロフィール
1945年東京生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業後、渡仏。帰国後オリンパス光学工業入社。1987年オフィスオクムラを設立、フリーカメラマンとして活躍。著書に
「相続税が払えない-父奥村土牛の素描を燃やしたわけ-」(文藝春秋ネスコ)「旅の写真術」(旬報社)など多数。2012年より宝塚在住