司法書士 木村澄夫さんと観る 「鉄斎の旅」   ―富士山図屏風と桜堂・柴田松園―

司法書士 木村澄夫さんと観る  「鉄斎の旅」   ―富士山図屏風と桜堂・柴田松園―

 いちょうの大木から銀杏がこぼれる清荒神清澄寺。秋晴れの青い空を仰ぎながら鉄斎美術館に向かうと、同館では「鉄斎の旅」をテーマに、「万巻の書を読み、万里の路を行く」を実践し、その蓄積をもとに日本の風景や風俗を描いた鉄斎作品が展示されています。鉄斎は40歳で生涯ただ一度の富士登山を敢行しますが、その23年後に京都の唐紙商、柴田松園宅で描かれたのが「富士山図」屏風です。こうした名作を始め鉄斎と松園の深い親交を示す新資料が公開されています。  芸術に造詣が深く、自らオペラを歌う木村澄夫さんと展覧会を鑑賞、名作を通して鉄斎の旅の足あとを楽しみました。

鉄斎が描く風景や風俗には 蓄積された知識が詰まっている

 清荒神駅前にあるベガ・ホールのコンサートによく足を運びますが、鉄斎美術館には行く機会に恵まれず、今回の展覧会で「鉄斎の旅」を辿りながら作品をゆっくりと鑑賞することができ、鉄斎の見聞への意欲と知識には驚かされました。

 まず、驚いたのは、最初に展示されている日本地図の掛軸。北は北方四島と北海道(蝦夷)から南は沖縄(琉球)までが今の地図とは全く違う形で描かれ、そこに当時の地名が朱で書かれているので、鉄斎の旅したところを辿ってみたい気分になりました。

 蝦夷の風俗を描いた「蝦夷人鶴舞図」は鮭漁に感謝して舞う儀式と賛に書かれていますが、アイヌの人が鶴のように舞う姿がいきいきと描かれ、風俗や風習が画を通して伝わってくるのも文献で得た知識に加え、鉄斎が実際に蝦夷の地を踏み、アイヌを身近に感じたからでしょう。

 また、芭蕉が旅した「奥の細道」(左の写真・木村さんの左後)を画題に描かれた「蕉翁乗馬図」は、賛に「野を横に馬引き向けよほととぎす」の句が書かれていますが、鉄斎は下野(栃木県)を遊歴し奥の細道の世界を体感、自分の中で熟成させ、独自の表現を生み出しているように思います。

 正面には六曲一双屏風「富士山図」が展示され観る者に迫ってきます。特に左隻の山頂全景は近くで見ると荒々しい筆のタッチですが、離れてみると、存在感が際立っています。鉄斎は親交の深かった唐紙商・桜堂の柴田松園を伴い、各地を旅したとのことですが、松園との交流を知ることができる書簡や鉄斎が図柄の下絵を描いた書簡箋(巻紙)、その版木など貴重な資料も初公開されています。

 最晩年の89歳で京都山科の葡萄園を訪れ「葡萄苑図」を遺していますが、生涯現役を貫いた鉄斎の生き方にも学ぶところは大きいと感じました。

 私は86歳ですが、現役を続けられるのも芸術が心を満たしてくれているからではないかと思っています。

司法書士 木村澄夫さんと観る  「鉄斎の旅」   ―富士山図屏風と桜堂・柴田松園―

木村澄夫・1926年(大正15)神戸生まれ。67年より司法書士。俳句に親しみ、53年より断崖、天狼を経て夜盗派。西東三鬼、山口誓子らに師事。56年より約10年間天狼神戸句会幹事、33年より断崖を編集・発行。句集に「明石海峡」「レクイエム」。川西市在住

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