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その他 植田 紳爾

2007年新春を飾る1月1日から2月5日までの宝塚大劇場月組公演は、宝塚ロマンチック・コメディ『パリの空よりも高く』とレビュー・ロマネスク『ファンシー・ダンス』の豪華2本立て。演出家・植田紳爾の101本目となる作品は、菊田一夫の名作「花咲く港」をモチーフにした、宝塚らしい明るく華やかなコメディ。

新春月組公演が101作目。タカラヅカの伝統を受け継ぎ50年、演出家として話題作を世に送り出した。

『ベルサイユのばら』『風と共に去りぬ』などの超ヒット大作を生み出した宝塚歌劇団の演出家、植田紳爾氏が2006年、入団50周年と宝塚歌劇作品100本という大記録を打ち立てた。宝塚歌劇は今年、92周年。植田氏は宝塚歌劇の歴史の半分以上を座付き作者として舞台づくりに貢献してきたことになる。宝塚歌劇団にとっても初めての記録。11月27日、宝塚大劇場において、植田紳爾演出家50周年記念スペシャル『夢のメモランダム』~植田紳爾・魂の軌跡~が開催された。

月組公演『パリの空よりも高く』~フェルゼンとマリー・アントワネット編~ 100作目の作品、星組公演『ベルサイユのばら』雪組公演『ベルサイユのばら』~オスカル編~
▲月組公演『パリの空よりも高く』▲~フェルゼンとマリー・アントワネット編~100作目の作品、星組公演『ベルサイユのばら』▲雪組公演『ベルサイユのばら』~オスカル編~

「小林一三先生にもお目にかかったし、第1期生にも当時の宝塚の話をいっぱい聞かせてもらったことが何より幸せ。おかげで92周年を身近に感じます。僕自身は後ろを振り向かず、ただ前だけを見て生きてきたので、50年とか100本とか、考えたこともなかった。2004年に旭日小綬章をいただいて共同会見をした時に、劇団の広報の人が、僕の在団年数と作品数を紹介してくれて、そうなのかと。その後『長崎しぐれ坂』と『ベルサイユのばら』は、ひそかに感慨を抱いて創ってきました。1年ほど前に折角だから記念の催しをしてあげようという話になり、でもいざ生徒たちがスケジュールをやりくりして稽古をしてくれるようになると、忙しくさせて申し訳ないな、気の毒なことをしたな、と気が重く、今は感謝の気持ちしかありません」

出演者は東京宝塚劇場公演中の雪組、全国ツアーとシアター・ドラマシティ公演中の花組以外の、専科を含めた158名と卒業生たち。2幕14場の中に宝塚歌劇初の100名の黒燕尾を着た男役による大階段でのダンスや、50人のコーラスなどが盛り込まれて、100周年に向かう宝塚歌劇の類なき華やかさと抜群の団結力を力強く発信する貴重なイベントになった。

「記録というのは歴史があって初めてできますし、歴史が続くから記録を打ち破っていくことができます。僕の50年、100本という記録が宝塚歌劇の歴史に小さな点を残すことができたら、開催の意義もあるかなと」

その気品と情感に溢れる植田紳爾作品は、老若男女にわかりやすい作風をもち、世界中の人々の心をとらえてやまない。植田氏の50年に亘る創作活動を、仮に3つの時代に分けてみると、まず1957年2月に宝塚歌劇団に入団後、舞踊劇や狂言などの小作品を多く手がけた若手時代から1974年の『ベルサイユのばら』初演まで。次に初めて経営に関わった宝塚クリエイティブアーツ社長時代を含む1995年まで。この間、81年『海鳴りにもののふの詩が』、82年『夜明けの序曲』、84年『我が愛は山の彼方に』など芸術祭賞を立て続けに受賞したほか、昭和時代を初めて宝塚化した91年『紫禁城の落日』の作・演出や、30年ぶりのNY公演そして新宝塚大劇場こけら落とし公演の日本物ショーを担当。未曾有の大震災被災から見事に復活した『国境のない地図』も植田紳爾氏のオリジナル作品である。3つ目の時代は96年6月、宝塚歌劇団理事長就任から始まって現在まで。一時期は阪急電鉄取締役さらには常務取締役の重責を担いながら、5組化、中国公演、ベルリン公演、新東京宝塚劇場開場による東西通年公演開始、第2回中国公演など、まさに戦場ともいえる宝塚歌劇団大変革時代を走り続けてきた。

「我々の仕事はどれだけ一生懸命やってもお客様がごらんになって、よくない、とおっしゃったらそれで終わり。大変厳しい仕事です。精進を重ね、反省して、次につないでいくしかない。いつも苦しんでいます。でも僕はなぜか乱世が好きで、そういう意味では宝塚歌劇が大変革する時代の大波の中に放り込まれたからよかった。僕が旗を振ると皆がついてきてくれましたから」

一方でホームグラウンド以外の外部公演の作・構成・演出も多く、地域貢献の分野でも兵庫県主催「ふれあいフェスティバル」の総合プロデュースなどを担当する。受賞歴は主なものだけで兵庫県文化賞、松尾芸能演劇優秀賞、紫綬褒章、菊田一夫演劇特別賞、旭日小綬賞などがある。

ドラマ作者の第一人者として制作現場を率いる植田紳爾氏に筆の休まるときはなく、目前の2007年1月1日に宝塚大劇場新春月組公演『パリの空よりも高く』の初日が控えている。
「昭和の時代を書き残しておくことが、昭和を生きた人間の役目ですし、昭和のすばらしい劇作家を思い出していただくことも大事。今回は菊田一夫先生の名作『花咲く港』をもとに楽しい洋物を創らせていただきました。100周年を控えた今、宝塚歌劇はまた新たな変革の時を迎えている。

「少子高齢化の速さには驚くべきものがあります。平日の映画館に行くと90%が高齢者の方。これからは宝塚歌劇も、人生を長く経験してこられた団塊の世代以上の方たちをターゲットにした作品づくりがいっそう必要になってくる。宝塚歌劇のもつ純粋さが大人の方々の胸を打つには、我々が真に悩み苦しんで血の通った人間を描き、演じ続けるしかないのです。劇場に足を運んで下さる2500人の、全く違う環境で育った方々に感動していただくのは大変な仕事。昨日までお客様が来てくださったのに、なぜ今日は来ていただけないのか、そういう波を体験してきましたから、こわさも充分知っています」

幸いにも今はミュージカル全盛期。ブロードウェイ・ミュージカルが生まれる前から歌劇という日本のミュージカルづくりに取り組んできた宝塚のノウハウが、外部の舞台から求められる時代だ。今夏、植田紳爾氏が監修し宝塚歌劇団が制作に全面協力した「リボンの騎士」が、新宿コマ劇場を熱気の渦に巻き込んだ。 「これも大事な仕事。日本のミュージカルを世界で上演するために我々の経験が役に立つのはうれしいことです。新しい試みは勉強になりますね。観客の90%が若い男性で驚きました。宝塚もまだまだやれることがあるんです。ただ大事なことは、宝塚はスターシステムだということ。それを忘れて海外の真似だけしていると、世の中にミュージカルはあっても宝塚はなくなっていくよと話しています」

東西に専用劇場をもち、出演者と制作スタッフを抱える劇団経営と、与えられた条件の中で新作を生み出し続ける創作活動。二つの異なる感性が見事に呼応しあっているのは、創作に専念できる環境を選んだ今も同じ。

「もう無理かと思いながら、意地でもやり遂げていく。やはり乱世が好きなんですね」

植田 紳爾さん

1933年大阪府生まれ、神戸育ち。57年宝塚歌劇団入団。74年初演の『ベルサイイユのばら』、77年『風と共に去りぬ』の大ヒットで空前の宝塚ブームを生み出す。宙組新設による5組化、東京宝塚劇場新装開場にも手腕を発揮。 宝塚歌劇団理事、特別顧問。

インタビュアー 名取千里(なとりちさと)
ティーオーエー、現代文化研究会事務局/宝NPOセンター理事主な編著書「タカラヅカ・フェニックス」(あさひ高速印刷)「タカラヅカ・ベルエポックI・II」(神戸新聞総合出版センター)/「仕事も結婚も」 (恒友出版)
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