弥生三月、暖かさに誘われて、清荒神清澄寺の境内では参拝後、寛ぐ人や鉄斎美術館を訪れる人の姿が多く見られるようになりました。同館では3月5日から「鉄斎—画面のひろがりー」と題する、屏風絵や大きな掛軸など大画面に描かれた大作ばかりを集めた展覧会が開催されています。大画面を通して鉄斎の画家としての力量を改めて知ることが出来ます。川柳作家で本誌の選者でもある中島弘風さんと迫力ある作品20点(前期)を堪能しました。
阪神淡路大震災で罹災するまでは「七福荘」という旅館を営んでいて、囲碁の名人戦が2年に1回行われ、対局中の待ち時間に各社の新聞記者を連れて鉄斎美術館に行ったものです。それ以来、久しぶりに鑑賞させてもらいました。前期で、最初に展示されていた日本絵図は日本列島が南西側から描かれているのに少々驚きました。古地図にはあるそうですが、現代の日本地図は、全て南から描かれていますから。
鉄斎は万巻の書を読み、万里の路を行ったと言われますが、北海道(蝦夷)から鹿児島まで旅をしているんですね。鉄斎といえば水墨画を連想していたので、絵図も得意としていたとは知りませんでした。
この展覧会は大幅や屏風が集められていて、色彩の美しい山水画が目を引きます。京都市美術館から里帰りしている「漁樵問答図」(前期展示)は六曲一双の迫力ある屏風ですが、一見、荒く見える木や山の線が、十歩引いて見れば見事な風景になって見えます。鉄斎はもちろん引いた目線で描いていたんでしょう。大作でも綿密な下絵もなくすばやく描いたといいますから、頭の中に湧いてきた構想だけで描くことが出来た稀有な画家だといえますね。
また、鉄斎の画は賛をじっくり読むと含蓄があって面白い。墨一色で描かれた「渓山勝概図」(左上の写真・中島さんの左後方)の賛は自然から糧を得る生活が楽しいから政府高官として招かれても田園生活を捨てて車に乗って出仕するようなことはない、という意味の漢詩が書かれていて、どこか川柳に通じるものを感じ共感しました。
ロビーに展示されている鉄斎が絵付けした大型の「富士山形香炉」などは遊び心に溢れ、茶目っ気のある人柄を感じさせてくれます。鉄斎は学者として身を立てたかったそうですが、学問の蓄積があったからこそ天性の画才を開花させ画家としてこれだけの偉業を成し得たのだと、改めて知ることが出来ました。
▲中島弘風・1995年、経営していた武庫川右岸、月見山の割烹旅館「七福荘」が阪神淡路大震災の被害を受け廃業する。1983年より川柳を始め、現在、川柳瓦版の会・幹事同人、ウィズたからづか川柳欄の選者、エフエム宝塚川柳コーナー担当、自然総研川柳講座担当