バックナンバーへ|TOP | ||||||||||||
-バックナンバー- 2004年4月号 | ||||||||||||
|
ウィズ・インタビュー2度目の登場――1996年、22歳の彼は、阪神タイガースにドラフト1位で入団したばかり。その前年に引退した真弓信明(現近鉄コーチ)の背番号7を譲り受けたスーパールーキーは、「プロとして通用する力をつけたい。『7』の責任をバネに頑張っていきたい」と初々しく語っていた。 あれから8年。29歳になった今岡誠選手は、星野仙一監督のもとチームをリーグ優勝へ導き、そして、自身もセ・リーグ首位打者、ゴールデングラブ賞&2年連続のベストナインという、攻守揃っての最高タイトルを手に頂点にいた。8年目の今の思いをまずは――。 『自分に課すものが高くなりました。以前は、3割打つのが一流の証みたいなもんですから、2割7部打てれば「まあ満足」という自分がありました。今はそういう小さい気持ちがなくなりましたね。「3割でエエワ」とはけっして思わない。もっともっと、とさらに上を目指している自分がいます。タイトルにからんでいきたい。それがプレッシャーではなく、心地よい刺激ですね。 プロに入って8年目。早いか遅いか分からないけど…。まあ、早くはないですよね(笑い)。8年かかって、やっとそういう気持ちになれました。今年は、チームはもちろん、僕自身もプロになって最高の数字を出す、そんな気持ちです。』 入団以来、タイガースは最下位を定席にする、長い長い不振の時代を過ごしてきた。その頃は、「1度くらいは優勝したいなぁ。子どもに自慢したいし…」とマジで思っていたと笑う。それほど、今岡選手にとって「優勝」は夢の出来事だった。しかし、02年、運命の星野監督就任。そして、わずか2年にして果たしたリーグ優勝。それが、「勝つ喜び」と「勝った自信」をもたらした。「さらに上へと気持ちを駆り立てる」と、気負うでもなくさらりと言ってのけるところに、溢れる自信を見た気がする。 不振だったのはチームだけではなく、99年から3年間、今岡選手自身も不振の中で苦しんでいた。その理由は様々に語られてはいるが、今岡選手は、「結果を出した今だから言えることですが」とこう振り返る。 監督が代われば、出られなくなる選手は必ずいます。そんなの常のことですから、監督どうこうとは思いません。プロですから、「がんばってます」っていくら言っても結果が出ないと周りも認めてくれません。がんばってるのは僕だけやないですから。誰のせいでもなく、自分自身の問題でした。自分にメチャメチャ腹が立ちました。そういう時は、何もかもが悪い方に転がっていくもんです。マスコミやファンに、いろんなこと言われる。どうせ分かってもらえへんねんから、もうええわ…。背中を向けてましたね。自分で「俺はアカン」と思いだしたらおしまい、でも、そうなってました。やっぱり、辛かったですねぇ。 そんなどん底からの復活を果たした転機は、やはり星野監督の就任。その「名将」が著書で、今岡選手のことを「2年間で一番伸びた」と評していた。そして、現実、彼の活躍は目を見張るものがあった。「覇気がない」どころか、先頭打者として積極的にガンガン打ちにいき先頭打者ホームラン7本のチーム最多記録を塗り替え、そのアグレッシブな姿勢がチームの牽引力と言われた。それを星野監督は「ありのままに、自分を素直に出せるようになっただけ。もともと熱い選手だった」と表現していた。 星野監督のスゴイところは、僕らに「優勝したい」と言わせてくれたことです。監督が「優勝するぞ!」とハッキリ言ってくれたから、選手がそう思えた。監督は、僕らに「やればできる」と言い続けました。優勝が現実的になってから言ったんじゃないんです。最下位だった時に言った。スゴイ人やと思いました。 監督に言われガツンときた「言葉」――たくさんありますけど、そうですね、「チームの中心に立つ者はハッタリも必要や」と。それは自分にとって大きかったですね。「自分が弱った時でも、前を向いている姿を見せろ。気持ちの部分が大切や、下の者を引っ張っていくんや、という気持ちでやらなアカン」と言われました。監督自身、日々それを実行されていましたしね。マスコミって、しゃべりたくない時にも来るし、突かれたくないことを突いてくるでしょ。そんな時も、肝心なことにはキッチリ応える。余計なことは言わない。無駄がないんです。いやー、真似できないですね。 |
次のページへ |