- ▲再生をテーマに作品を発表している大野さんの作品「循環」
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再生をテーマに作品を制作
「何よりも絵を描くのが好きでした」と少年時代を語る宝塚市生まれの大野良平さん。高校卒業後、東京で働きながら絵画研究所に通う。 だが、 お姉さんの急逝で宝塚に戻り、 一念発起して宝塚造形芸術大学に入学。 大学で生涯の師と仰ぐ彫刻家・今村輝久 (2004年死去) 氏と出会い、 一転して彫刻の道を歩むこととした。 以後、 関西を中心に彫刻作品を発表しつづけている。
さて、 2004年1月、 大野さんは宝塚市南口のサンビオラ3号館で開かれた 「第4回宝塚現代美術展・店」 で“再生”をテーマに作品を制作 (図版)。 1995年の阪神・淡路大震災で廃材の山となった自宅の写真を縦2・35m、 横3・35m、の和紙に拡大コピーし、中国の黄土を写真表面に薄く塗り付け、その前に杉の苗木を置いた。基調の黄土色は、震災前の自宅の土壁の質感に見立てた。杉の苗木に「壊れたものが土に返り、命を育てる」を代弁させたと作家は話す。つまり、作家の個人的な思い出の再生が、震災を体験した私たちの記憶を喚起し、木の循環と土の関係を作品化したのだ。と、ともに美術を介して地域や商業の再生も託したともいえるだろう。
宝塚から現代アートを発信 大野さんは、03年から商業ビル「サンビオラ3番館」を拠点に、仲間と震災や不況で活気を失いがちな街を美術で元気づけようとアートボランティアグループを結成。04年11月には、「あーと寺小屋座談会」を企画し、市民と美術家をつなぐ場を設け、宝塚から現代美術を発信することで、震災復興や地域の再生とアートの関わりを考える機会にした。
私は、大野さんの取り組みを、ドイツの美術家ヨゼフ・ボイスが自身の行動に“社会彫刻”と名付けていたことと重ね合わせていた。彫刻作品とは、形あるものを呈示するだけでなく、作家自身が社会と対峙することも彫刻作品なのである。
こよなく宝塚を愛し、美術で街の活性を模索している大野さんの今後の展開を支援したいと思うのは、私ひとりだけではないだろう。 |
- ▲アトリエでの大野さん
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