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-バックナンバー- 2005年11月号


7月、宝塚バウホールでの初主演公演『BourbonStreet Blues』で初めて不良青年役に挑んだ北翔海莉さん。これからの活躍が期待される月組の若手男役スターである。「自分ひとりの力ではなく、先生方の力が集結して今、自分は舞台に立っているんだなと感じています。これからも、次に与えていただく作品が代表作、という意気込みをもって、がんばっていきたいです」

北翔海莉さんの話し方は、なにげないけれども、じっと聞いていると、強い意志が全身を貫いているのがわかる。その意志は強いだけでなく、海流のように豊かな感情の流れに抱かれている。地球の母なる海を北に向かって精進し、羽ばたいていこう、という決意をもって名づけた、北翔海莉という芸名。その名を背負うことになるまでには、北翔海莉さんの原点といえる、特別ないきさつがある。

1996年、北翔海莉さんは約40倍の難関を突破して宝塚音楽学校に入学した。だが、その合格発表を北翔海莉さん自身は見ていない。
「高校の入学式に出席していました。絶対に受からないと思っていたので、二次試験が終わると同時に千葉の自宅に帰っていたのです」

音楽学校を受験したキッカケは、中学の担任の先生に「こういう道もある」と勧められたからだ。進学する高校も決まっていたが、両親は音楽学校の受験経験が社会勉強になるだろうと考えて、娘を送り出した。
「一次試験に受かってから、東京宝塚劇場で星組公演を観たのが私の初観劇です。東の東大、西の宝塚、と言われるくらい難関であることは、親も知っていましたが、試験会場に来て、改めて自分の来るところではないなと思いました。合格発表は、たまたま関西に出張で来ていた父が、娘がどういうところを受けたのか知りたかったのだろうと思います、こっそり見に行ったのです。音楽学校までの道程で、不合格になった人が泣き崩れている姿をたくさん見て、ここは本当に入りたくても入れない学校なんだなと思いながら門をくぐったそうです」娘の名前を見つけ、何かの間違いだと一度は門を出た父親は、思い直して学校に戻った。「実は本人は来ていないのですが」

その言葉に学校側は驚いた。
「前代未聞です、と。その夜の家族会議は深刻でした。私は新しく始まる高校生活に気持ちを切り替えたところでしたし、母も中学を卒業したばかりの娘に寮生活をさせることになるとは思ってもいませんでしたから。でも父が、あなたが受かったことによって39人も落ちた人がいる。泣き崩れるほど辛い思いをしている人たちのことを思うと、あなたが39人分、がんばらないといけないと」

こうして、北翔海莉さんの宝塚音楽学校生徒としての日々が始まったのだった。
「規則正しい団体生活というものには全く抵抗がなく、自炊も苦になりませんでしたが、授業についていけないのが苦しかった。何をやってもビリだし、歌も蚊の鳴くような声しか出なかったのです。実力的には一番下、挫折しないようにがんばりなさい、と最初にはっきりと言われました。その先生方の励ましの言葉のお陰で私は今、ここにいられるのです。何も知らなかった分、先生の教えのままに必死に稽古をしてきたことが今につながったのだと思います」

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