今年七回忌を迎える辻井弘さんを偲び、学生時代の友人らが中心となって追悼文集を編集し発刊した。 歳月を経てもなお慕われる故人と編集にかかわった人たちとの強い結びつきが「追憶 辻井弘君の七回忌を迎えて」に凝縮されている。
平成9年8月29日に亡くなった辻井弘さんの七回忌を迎えるにあたり、同級生の森本浩さんらが中心となって、追悼文集「追憶」をあさひ高速印刷(株)出版部より発行した。B5判、54ページの並製本で、グレーのレザック紙に「追憶」の墨文字がすっきりとした表紙。
森本さんが追悼文集を作ろうと思ったのは辻井弘さん三回忌の法要の時。亡くなった辻井さんは芦屋市立精道小学校低学年時代の同級生の会「三三会」を組織、会誌の発刊や集まりの世話をし、精道小学校や神戸一中(現神戸高校)の同期会の結成に尽力、その後も芦屋シルバー・オールドラガークラブの設立、少年ラグビースクールの開校など、多方面にわたって社会に貢献し交友範囲も広かった。森本さんは親しかった方たちと、辻井さんの生前の友誼に感謝し在りし日の姿を偲ぶため、七回忌には是非追悼文集を作ろうと決めていた。
文集を発行するにあたり、まずは追悼文を依頼する名簿作りから着手。精道小学校に関しては、当時としてはめずらしくきっちりとした名簿が残り、神戸一中についてもおおよそは判明していた。これも辻井さんや森本さんが同級生の会を組織し、会誌の発刊や会合の世話に尽力していたおかげであろう。その後、辻井さんは早稲田大学へ進みラグビーで全日本代表選手となり、開戦の年海軍に入隊。航空隊に勤務中に終戦を迎えたが、当時の様子を知る人がなく追悼文に残せられなかったのは残念と森本さんは語る。
8月の発刊にむけて3月頃から追悼文を依頼し5月末締切とした。80歳を超えているので余裕をもったスケジュールですすめたが、予定通りには原稿が集まらず苦労も多かった。集まった原稿を入力、印刷発注しゲラを校正。森本さんら編集者の頑張りが1冊の本に。
出来上がった文集は、遺族や親しかった人などに贈られ大変喜ばれたという。本文中のイラストカットや貴重な写真も自慢であるが、辻井さん本人の文章やスケッチも載っており、故人を偲ぶよすがとなりなによりの供養となった。
|