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-バックナンバー- 2003年1月号
   皮肉にも米国の同時多発テロ以降、世界の注目を集めるようになったイスラムの国アフガニスタン。宝塚に住む西垣敬子さんは内戦1年目の1994年に59歳でアフガニスタンに入り、戦争難民やタリバン政権下の女性を支援してきた。当時は世界から見捨てられ、誰も見向きもしなかった。今、西垣さんの日本での活動は一転、各地から依頼のある講演や写真展に東奔西走の日々。12月には今年3回目のアフガン入り。冬のジャララバードで井戸を掘り、女子大生のためのトイレを作る。西垣さんのポリシーは「小さなことでもできることがあればまず行動する」。


学校に女子が戻ってきた

 西垣さんのアフガニスタン支援活動は朝日放送のドキュメンタリー番組でも紹介されるなど、同時多発テロ後日本中の注目を浴びるようになったが、その活動は8年前の1994年から始まり、単身アフガニスタンを訪れ現地の人と交わり状況を肌で感じ、子どもや女性が必要としているものを現地調達するという地道な支援は今もなんら変わることはない。
 春、テロ後初めてアフガニスタンに入り、カブールの町に張られたインド映画のポスターや「学校へ行こう」と書かれた看板を目にしタリバンが撤退したことを実感したという西垣さん。秋にも再びこの地を訪れジャララバードの病院にレントゲンの機械を贈った。

 昨年、アフガニスタンに入って一番うれしかったのはユニセフから贈られたバッグをかけて女の子たちが喜んで学校に行く姿を見たことです。タリバン時代は女子は学校にも行けなかったし、職業も奪われていましたから。でも、教室が足りなくて外で勉強をしているし、窓ガラスのない教室や水が足りない病院の復興はこれからです。
 首都のカブールではフランス語とダリ語の情報誌も発行されていて貿易センタービル崩壊の映像も一部の市民だけだけれど知ることができるようになりました。でも、ほとんどの人はなぜ空爆が起こったのか全く知らない。
 今も8000人のアメリカ兵が駐留しアルカイダ撲滅作戦は続いているので長距離を車で移動する時はヘリコプターの音に恐怖を感じることもあります。
私はパキスタンからカブールに入り1年前、義足をプレゼントした少女フルーザンに会いにいきました。元気でしたが、空爆の話になると身よりのないフルーザンは孤児院で一人になりとてもこわかったと泣き出し胸が痛みました。私が会いに行くと母親のようにとても喜んでくれるので来て本当によかった、と思うんです。
 カブールから舗装されてない陸路を8時間かけてジャララバードに入り、孤児院を訪ねパソコンとテレビを寄付しました。情報は遮断されていたのでみんなテレビも初めてです。電話回線はないのでメールはできないんですが、英訳のソフトで勉強ができるようです。レントゲンのない病院には中国製のレントゲン機をパキスタンで購入し届けました。必ず現地の人が本当に必要な物を直接聞いて実際に目で見て買い、領収書をもらうという支援スタイルを続けているんです。私なりの小さな支援ですが、寄付する側にもされる側にも信頼してもらえるからこそ続けられると思っています。


35万人の難民キャンプを目の前にして

 23年間の戦争で破壊し尽くされインフラも整備されていないこの国へ行くには相当の覚悟が必要だ。支援への賛同者はいても同行者はいないというのもうなずける。15回に及ぶ訪問では国境を越えるのに民族衣装のブルカを被りアフガニスタン人になりすまし命からがら切り抜けたこともあるとか。そこまでして西垣さんをアフガニスタンの支援活動に駆り立てるものは?
 きっかけは日本に大使館があった93年にアフガニスタン大使館で開かれた写真展。ソ連侵攻で犠牲になった悲惨な姿が映し出されていた。衝撃を受けた西垣さんは大使館に交渉し94年に宝塚の国際・文化センターで写真展を開き宝塚アフガニスタン友好協会を発足させた。

 その年の秋初めてアフガニスタンに入りました。その頃日本からは医療や学校建設の支援をしている2つのNGOだけで、世界から見捨てられた国だったんです。既に内戦が始まっていてテントには難民が溢れていました。
 私はここで何をしたらいいのか、戸惑うばかり。女の人の姿が全く見えないのにもびっくりしました。イスラムの国だというのをその時実感しましたね。帰国後女性センターと西公民館で写真展をしましたが、ほとんどの人が素通り、お金も集まりませんでした。でも、次の年にミシンを25台買うことができ女性の自立のために裁縫教室のようなものがテントの中でできるようになり私にも支援ができるんだ、と勇気が湧いてきたんです。
 イスラムの国では女性でなければ女性に会うことすら出来ないので、女性が支援する意味は大きいんです。女性の就学や就労が禁止されていたタリバン政権下では民家の納屋で勉強を教える隠れ学校の先生の給料や教科書の援助が中心でした。長年の干ばつで水が足りないので井戸掘りも大きな支援です。


アフガン人という意識を育てる教育を

 西垣さんはアフガニスタンから帰ると必ず支援活動の報告会や写真展を開き、自ら撮した写真をスライドで紹介する。そこにはベール姿で勉強する女性やプレゼントされたボールを前にした笑顔の子ども達、そして新しい井戸で水汲みをする男の子や洗濯をする女の子が生き生きと写っている。その中には殺害された外国人ジャーナリストのメモリアルプレートや空爆時に使われた孤児院の防空壕など悲惨な現状を伝える写真もあり、アフガニスタンという遠い国の今が伝わってくる。
 アフガニスタンの国づくりは始まったばかり。まず最初に道路整備がサウジアラビア、日本、米の支援で始まるという。西垣さんの小さな支援も協力者が増え着実に歩みを進めている。

 これからは学校建設も含めて教育にもっと力を入れていきたい。アフガニスタンの戦争はソ連や米国など大国のエゴに振り回された結果なんですね。多民族による権力争いが内戦を生みそれぞれのゲリラの後ろで大国が武器を渡し、結果的にテロそして空爆という悲劇につながっていった。アフガニスタンはアフガン人という国家意識を育てないと平和にはならない。それには教育が一番大切だと思うんです。女性問題担当省も設置されたので政府ともコンタクトをとれればと思っています。
 子どもの教育に使ってほしいと寄付をいただいたお金で教育基金を作ることが出来たので役立てたいですね。まだ、具体的にはなっていませんが戦争孤児の支援ももう少し広げられればとの思いもあります。小さくても確実に生かされ、子どもや女性が喜んでくれる支援活動を今年も続けていきます。

 
  ■宝塚・アフガニスタン友好協会
 〒655―0844
 宝塚市武庫川町5―45―117
 TEL・FAX 0797(84)8446 (西垣)
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